今日は、2日ぶりの晴天となった。
朝から夏特有の雨上がり後の蒸し暑さが身体を襲う
ふと、蝉の鳴き声が聞こえた。
夏の騒音として定番となった蝉だが、同時に夏の訪れとして親しまれている。
私にとっては、蝉の鳴き声は夏休みの訪れであった。
小中高は7月の下旬から8月の末が夏休み期間だ。
蝉の寿命は1か月ほど。ちょうど鳴き初めて少しした頃に夏休みが始まり、夏休みが終わると蝉は土に還る。
大学時代は夏休みは8月からだったし、今は夏季休暇の数日しかないため、蝉のなき声が聞こえる朝はどうしても「やすみてえなあ」と溜息を吐く。
普段から休みたいとは思ってはいるが、この蝉の声は一層その気持ちを駆り立てる。
そのうち蝉の鳴き声が「ヤスミーン ヤスミーン」と聞こえてきそうである。
しかしなぜこうにも蝉は鳴き続けるのだろうか。
その理由は、「子孫繁栄」で、雄の蝉が自分のいる場所を知らせるためである。要はでかい声でナンパしているのである。
つまり蝉は、頭のおかしいタイプの陽キャであるということだ。
ただ、蝉は不遇な生き物である。
長年、土の中で過ごし、やっと地上に出ることができても寿命は1か月と短い。そのため自分の子孫を残すためだけに、思い切り大きな声を出して自分の存在感をメスにアピールすることしかできない。
蝉に限らず、多くの生き物は、生きるために生き、子孫を残すために力を注ぐ
「生きるために生きる」とはどういうことかというとライオンなどの肉食動物がわかりやすいだろうか。生きるために狩りをし食料を得る、狩りに失敗し続けると待つのは死だ。
しかし、蝉ほど生きるために、暑い中木にへばりつき蜜を吸い、子孫を残すために全力を傾ける刹那的な生き物もいない。他の楽しさを振り払い、種の生存戦略だけに奔走する姿に切なさを感じる。
蝉に限らず、夏の風物詩は刹那的な切なさのなかにあるのかもしれない。
眩く美しい光を放ち一瞬で消えていく花火、野球に高校生活のすべてを捧げるが笑うものはたった1チームのみの高校野球。永遠ともいえる長さだが振り返れば一瞬だった夏休み。
一日だけ先祖が返ってくるお盆。どれも華やかさと一瞬性、そして過ぎ去った後の切なさが体を通り抜けていく。
今年はどんな夏になるのだろうか
筆者の夏を振りかえるとそういった切なさよりも何もなかった空虚感の方が強い
小学校の頃は、夏は祖母の家で暮らした。中学校の頃は部活と友人と遊んだ記憶があるが、高校大学の夏の思い出がすっぽり抜けている。大学時代は一応県外に出たり、自動車免許を取ったりと単発的なものはあるのだが、だいたいは家でごろごろしていた記憶しかない。
なんともつまらない人生を送ってきたものだ。
正直なんにもなさ過ぎてドン引きである。
何かがあって歪んだタイプではなく、何もなかったから歪んだタイプなのである。
怨霊になったらなかなか成仏しないタイプである。
しかしこの気持ちと付き合うようになって10年近くは経った。
正直なところ、街中で仲睦まじいカップルたちを見ても、爆発しろとは思わなくなった。
むしろ子どもたくさん産んで、人口減少問題に対応しろと思うようになった。
・・・・・・・
これはこれで歪んでいるか・・・
社会人になってからは、将来に対する唯ぼんやりした不安を抱えている。
小学生のころはただ楽しく暮らせばよかったし、中高大は受験と就職で失敗しないというぼんやりとはしているがなんとなくの目標があった。
しかし、働き始めてからは特にこれといった目標がない。
蝉ではないが、生きるためのお金を手に入れるたけに生活している。
いや、種の生存のための行動をしていないので、蝉以下かもしれない。
子どものころから多くは望まず、将来は楽しく遊んで暮らせられればそれでいいと思っていた。しかし、遊ぶためには金が要るし、何より1人で遊ぶのには限界があるし、なにより飽きる。
一体人々は、何を楽しみにし、何のために生きているのだろうか。
幼稚園くらいのころよく見てたアンパンマンの歌詞を思い出す
「何のために生まれて 何をして生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ!」
当時は、音として耳にし、意味は全く分からなかったが、大人になった今、この歌詞の意味が鋭く刺さる。
自分のすきなものとは、自分の存在意味とは、自分に何ができるのか、
自分よりも優秀だった弟を戦争で亡くし、自らの存在意味を模索しながら、40歳のころ漫画家となり、アンパンマンを創り上げていったそうです。
自らの存在価値とは、意味とは、自分に何ができるのか、
いまだ、模索の途中のなかにいます。
手がかりすら見つかっていない。
死ぬまでにみつかるのだろうか・・・
しかし、蝉の話からアンパンマンの話になるとは、自分でも思っていなかった。
大学のころに書いた唯一の論文は、問いと結論を最初に設定していたが、このブログなど普段書くときは、最初に浮かんだ問いに書きながら考えてしまうので、ついつい話がそれがちになる。
ただここまでそれたのは、高校のころに書かされた読書感想文2000字にちなみ、2000字以上は加工と思っていたからである。
さすがに蝉の存在からの切なさだけで2000字を書くには、私の力が足りなさすぎた。
それでは2000字超えたので、蝉の話に書いていた時に考えていた結びの文を書いて今日は終わろうと思う
「あ~あ。甘酸っぱい青春送りたかったな~と心のなかで号泣しながら、真顔で青白く光る電子の前で今日も独り文字列を刻むのであった。」
おわり