バルバロムの思考迷路

思ったことを書く。いいことも悪いことも。要は掃き溜め

努力は才能論

努力すれば夢はかなう

 

よく見る文ですね

 

努力しても夢はかなわない

 

これもよく見ます

 

努力して夢がかなわないのはそれは努力ではない

 

たまに見ます。ムカつきますね

 

ここでは、努力のやり方やアプローチが間違っているんだよ。

努力しても無理なのは才能がないからだ云々という議論ではなく

 

そもそも「努力」ってみんながみんな簡単にできるものなの?

もしかして「努力」って才能なんじゃないの?ということについて語ります。

 

私は、努力が嫌いだ。

高校のころ、予習復習がめんどくさくて自学自習を一切やらなかった結果浪人したし、浪人時代も周りに比べると楽をし、1日マックスでも6時間以上の勉強をしたことがない。

大学でもだらけまくってバイトもせず資格も取らなかった結果、就活も苦労した。

ゲームでも多少行き詰って解決策が見当たらなければ、そのゲームはやらなくなるし、

なによりできないことをできないと自覚しつつ、試行し続けるのがたまらなく苦痛なのである。

対戦ゲームなのでも小さいころから負けることに関してかなり苦痛を感じていた。

ただ、技術の向上のための練習は楽しいと思えないので、娯楽の時間でなぜ楽しくないものをしないといけないのかと感じ研鑚をすることはなかった。

 

こうして書いてみるとなんとも生きづらい性格をしている

 

 

いやそんなことはどうでもいいのだ

 

私が言いたいのは、失敗することが、つらく恥ずかしいものであると感じることなく、

練習・研鑚自体が楽しいと思える人間でないといわゆる「努力」ができない

「努力の才能」を持っていないといえるのではないだろうか

 

たまに練習が楽しい、勉強が楽しいという人間がいるがそういう人が努力の才能があるといえる

 

 

私は、勝利すること、成果をあげること、問題が解けることが楽しいと感じる。

すなわち「できる」ことが楽しいのであって「努力」が楽しいわけではない。

さらにいうと「できない」ことは楽しくないのでそのための「努力」は苦痛となる

 

「できない」ことが「できる」ようになるのが楽しいというのもあるが、

「できない」自体が苦痛なのであるので「できる」までに期間が長すぎたり、他の者ができていたりするとイラつくし心底失望するのである。

 

そうなると解決方法は、1つしかない。「やらない」ことである。

こうやって、得意なものがない、好きなものもわからない人間が出来上がるのだ

 

話がそれてしまった。

 

要するにすべてものステータスがあり限界値がある。人々は割り振られたステータスで生きている。それらを突破することはチート行為とされ、(スポーツにおけるドーピング、ゲームにおけるチーミング、美容整形、遺伝子操作)忌み嫌われる。

 

そのステータスを上げるには努力が必要だが、その努力にもステータスが振られたいることを考えなくてはいけない。

 

 

 

長いので3行にまとめる

技術だけでなく、努力することにも才能が存在する

「失敗が苦にならない」「できないことが苦痛でない」者が努力する才能を持つ

よって私は努力ができない

 

以上!